神武天皇のピンチを救った魔法なトンビ

ぼくが初めて日本にやってきたのは、およそ50年も前だった。当時はアメリカ陸軍の二等兵で、神奈川県の座間基地に駐屯されていた。座間といえば、小田急線で都心に結ばれている一方、大きな河川である相模川のすぐそばで、川沿いの広い水田地帯は我々兵隊にとって散策やサイクリング散策の絶好なフィールドだった。初夏のある日、いつもの散策コースに出かけると、言葉を失ってしまった。見慣れた静かな農村風景はまるで川の中の竜宮城に変わっていた!農民たちは庭や屋根に高い竿を立てて、コイの形に模したのぼりを取り付けていた。コイは色も大きさも様々、空を元気よく泳いでいた。

ぼくは片方の日本語で知り合いの農家に尋ねると、男の子たちの健やかな成長を祈るという、「鯉のぼり」の意味を初めて教えてもらった。35年前、千葉ニュータウンに引っ越してきた当時、周辺の農村にも鯉のぼりがまばらに泳いでいた。しかし、現在は所々に垣間見える程度。地元の方のお話により、今の農家は若い人たちが村を出て、残された年配の方たちの力だけで大きな竿を建てることが出来ない。また、日本の素敵な伝統年中行事が姿を消そうとしている。やはり、寂しくなる。

現在、鯉のぼりの文化は町内会や保存会によって守られていることが多い。四街道市の千代田調整池で毎年、大きな綺麗なコイをたくさん泳がせてくれる。

ぼくの家も一人の息子に恵まれている。団地には鯉のぼりを上げてはいけないが、せがれの健やかな成長を祈るために5月人形を毎年、リビングルームの棚に飾っている。そして、ここに引っ越してきて、だいぶ後でやっと気が付いたが。この5月人形には、北総の里山原風景の大きな謎を開き明かす重要なヒントも秘められている!

家には、前毛が太くて、髪の毛と髭がワイルドな感じの鍾馗(しょうき)と、堂々とした立派な姿の神武天皇、2本の人形を飾っている。鍾馗は中国の唐時代に実際に活躍した人物をモデルにして、病気を追い払ってくれると言われている。神武天皇は日本の初代の天皇、奈良盆地で大和政権を開くために勇ましく戦っている武者の姿で描かれている。そして、北総の里山原風景と深い関連を持つのは、この神武天皇の方だ。

五月人形に描かれる神武天皇の姿は、「神武東征」という神話の有名なエピソードに因んでいる。『日本書紀』により、九州から奈良盆地に攻めてきた神武天皇は、地元の豪族と戦を望んでいた。しかしいくら頑張っても、苦しい戦いに強いられ、なかなか勝利できなかった。やはり、地元の豪族は西の国から勝手に攻めてきたインベーダーに自分の土地をその簡単に譲らない。必死に抵抗していた。

その泥沼の戦に、ある日、稲妻のように光り輝く黄金のトビが突然に飛んできて、神武天皇の弓の先端に止まった(家の人形は槍の先に)。この不思議な鳥に驚いた敵軍は眩まされ、戦う気力を失ってしまった。神武天皇はパニック状に陥った敵軍を皆殺しにして、戦を終わらせた。そして、神武天皇は、勝利を齎せたトビを奨励して、その戦場地域を「トビ」と名付けた。『日本書記』の記録には、その地名は後で「トミ」に訛ったと記述している。また、この大活躍したトンビこそ、北総の里山原風景と深く関わっている。

ぼくの家の五月人形。金色のトビは弓ではなく、神武天皇の槍先に止まっている。

北総地域の鎮守社には、熊野神社、浅間神社、八幡神社、諏訪神社、春日神社、稲荷神社、大宮神社、八坂神社などなど、全国的に有名なブランド神社系列の分社が多い。しかし、北総ならではの全国的に珍しい、深い謎に包まれたユニークな神社も鎮座している。その一つは「鳥見神社」(とりみじんじゃまたはとみじんじゃ)という。

北総には、18社の鳥見神社が鎮座している。その中には小社程度のものも見られるが、地区(旧村単位)の鎮守社クラスの立派な神社も多く見られる。これらの神社は、巨木を揃った鎮守の森に囲まれていて、神秘的な空気を漂わせている。美しい神社彫刻を施しているものも少なくない。また、獅子舞や神楽などの貴重な無形文化財を伝承する社も楽しめる。

小林地区の鳥見神社(左)は北総地域の鳥見神社全18社をまとめる総本社とされている。社伝には、物部氏の一族がここに到り定住して、この地域を開発したと伝えられている。浦部地区の鳥見神社の神楽は千葉県無形民俗文化財に指定されている。

鳥見神社は北総以外にほとんど見られない。そして、北総の中でも、印旛沼と手賀沼の間という、限られた地域にしか鎮座していない。この分布は謎のベールに包まれ、われわれ地域歴史のオタクの好奇心をあおり立てている。色々な説が唱えられているが、ぼくの個人的な考えでは、先ず『日本書紀』の記述に戻る。神話によれば、上記の大きな戦の後、「ニギハヤニ命」(命饒速日命)という神が神武天皇に忠義を示し、国を天皇に譲り、熱烈な歓迎を受けた。そして、その神は物部氏の祖先であるということも記されている。

鳥見神社の分布は印旛沼と手賀沼の間の狭い地域に限られている。この謎はぼくたち地域歴史のオタクたちの想像を掻き立てている。

北総の鳥見神社は、主祭神としてニギハヤニ命を祭っている。その妻であるミカシキヤ姫(『古事記』ではトミヤ姫とも呼ばれる)と、子であるウマシマチ命の2柱も一緒に祭っている社も多い。この3柱の神々は物部氏の氏神とされ、皆が学校の日本史授業で習うように、物部氏は6世紀後半、仏教を受け入れるかどうかを巡って蘇我氏と争った。廃仏派の物部氏は敗れ、その子孫がちりちりになった。この時、物部氏の一族が印旛沼の西に住みついて、この地域を開拓し平定した可能性が高いと考えられる。当然、奈良盆地から新天地を求めてここにやってきた物部たちは、自分の氏神も奈良のとみ町からここに勧請して、鳥見神社を立てて祭っただろう。

 

歴史には、国全体や世界を動かすビッグ・ヒストリーと、各地域に潜むスモール・ヒストリーの2タイプがあると考えている。学校で学ぶビッグ・ヒストリーも重要だが、地域の里山原風景に深く根ざしたスモール・ヒストリーは直接に触れ合え、わくわくさせる。ぼくは以前から鳥見神社のヒストリー・ミステリーに魅了され、自転車で各地の鳥見神社を楽しくこぎ巡って、謎を解くヒントを探っている。歴史博物館も訪れて、時折、図書館の郷土資料室に座り込んで、考古学の発掘調査報告書などの本格的な資料にも挑戦している。スモール・ヒストリーは身近な原風景散策ならではのビッグな楽しみ。

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