こころの原風景をそぞろ歩く (日本語) これを最初に読んでください

ぼくケビン。ニューヨーク生まれ育ちのアメリカ人、 年齢は「アラ七半」。よく、「何年日本にいる?」と聞かれるが、いつも指5本を立てて答える。これは5年ではなく、50年を意味する。皆、びっくりすれね!1972年、アメリカ陸軍の軍人として初めて日本にきて以来、日本の自然と文化に引かれて、そのフィールドを自分のライフワークに決めた。 この38年あまり、千葉ニュータウンに棲んでいる。千葉ニュータウンは交通が便利、ショッピングなどのアメニティも揃っており、現在は人気絶頂。ぼくは千葉ニュータウン中央駅から歩いて7~8分の高層マンションの20回に棲んでいる。ベランダから北方向を見るとニュータウン名物の「マンションの森」が広がっている。この周辺の新しいマンションは完成する前に完売するよう。 しかし、ニュータウンは元々、1980年代、静かな農村地帯の中に作られ、住宅街の周辺には田んぼや畑、雑木林など、典型的な里山風景もよく残っている。多くの農村集落も健在。ニュータウンそのものは東西に長いものの、南北には狭い。また、少なくとも現時点では、開発はニュータウンの計画地内に限られており、外側にはあまりひろがっていないため、住宅街と里山が隣り合って共存している。例えば、ぼくの表玄関に出て南方向(左)に向かって歩くと、10分で住宅街と里山の境界線を超える。北総の地域ほど、生活の便利性と里山の美しい風景が見事に両立している類例は日本のみならず、世界的にも珍しい。 ニュータウン周辺の里山は、ナチュラリストのぼくにとってメインフィールドでもある。毎日のように自転車やカントリーウオークで里山を巡り、生き物や歴史、伝承文化などを楽しく観察している。観察を38年間続いても、飽きることは一切ない。里山にはそれほどの魅力的なネタが潜んでいるから。 北総の里山はスケールがとても小さい。基本的な地形は、ほぼ平の高台(下総台地)とそれに深く入り込む狭い谷間(地元でヤツ(谷津)と呼ばれる)から成り立っている。沼や利根川の周囲に膨大な沖積平野も広がっている。基本的な土地利用は、台地の表面に畑と植林、ヤツと沖積平野などの低地には水田。低地と台地の間の斜面には雑木林や竹林など、里山的な森林が茂っている。同じような地形と暮らしの様式は、武蔵野台地、大宮台地、常陸台地にも見られる。北総地域には戦後の開発が遅れたため、里山が広く残り、現在は南関東を代表する貴重な原風景が楽しめ。 ぼくはここに引っ越してきた1986年以来、周辺の里山を楽しみながら、その保全運動にも積極的に関わっている。里山には悲しい矛盾がある。あまりにも見慣れた風景から、その価値が見えてこないのだ。白神山地のブナ林や沖縄のサンゴ礁なら、自然遺産としての保存価値が分かりやすい。しかし、対照的に、田んぼや雑木林、小川などの小さな里山は、各地でありふれた風景。特別に保存するという発想はなかなか浸透しない。 ぼくは本や新聞、雑誌にエッセイなどを書いたり、テレビやラジオの番組に出演したりして、里山の良さと大切さをアピールしてきた。読売新聞の英字新聞の週刊連載エッセイ「Nature in Short」は20年以上続いて、全部で千数百回以上書き続けた。そのネタの殆どは、身近な里山で見つけたもの。雑誌や地元の地域新聞でも月間連載を本語で書いてきた。また、数多くの講演会や自然観察会を行って、里山のファンを積極的に増やそうとしている。 里山保全に特に高い効果だったのは、1996年、朝日テレビの「ニュースステーション」企画。一年を通してニュータウン周辺の原風景をフォローしえ、映像と解説で里山の面白さを紹介した。当時、久米宏さんがキャスターを務める「ニュースステーション」は高い人気を誇り、「里山」というキーワードを一気に全国に広めてくれた。   ナチュラリストといっても、ぼくの趣味は動植物に限らない。じつはぼくの本来の専門は民俗学、自然と人々の関わりに特に関心が高い。里山では、地形、気象、動植物、暮らしの営み、歴史、伝承文化など、実に様々な要素がお互いに影響し合い、長年にわたり地域の原風景をクリエートしてきたる。ぼくはこれらの要素の関わり合いを通じて里山の原風景を捉えろうとする。 ちょっと難しいのは、人々のこころに潜む素朴な気持ちや思想、理念など。例えば、自然・神仏・人の関係を表す宇宙観や、人が自然または他人に対して示すべき態度の価値観などのことが該当する。このような心に潜む宇宙館と価値観は、人々の自然との接し方に大きな影響を与える。例えば、日本独特な自然に寄り添う暮らしは、伝統的な価値観と宇宙観によって支えられてきたと、ぼくは強く感じている。日本にはあまり知られていないかも知れないが、このような立場から人と自然の関係を見つめるSpiritual Ecology (スピリチュアル・エコロジー)という学問も世界的に発展している。 北総の各地に見られる「ため池」(溜め池)はこのスピリチュアル・エコロジーの良い事例を提供している。ため池は本来、斜面から湧き出る水を池に集めて下流の水田に送る仕組みの土木施設。もともと、安定した灌漑用水を確保するために整備されている。しかし、水を大きく頼ってきた水田稲作民の日本人は、水というものは単なる物質ではなく、神から預かる大切な恵みと見なしてきた。そして、水が大地から湧き出る周辺は、「水神様」という存在に守られる聖なる場所と考えられてきた。地元の人たちは、ため池に小島を造り、その上に社や祠を立てて水神様を祭っている。もちろん、水神様にとって聖なる環境は決して荒らさず、大切に保ってきた。 里山ナチュラリストにとって、観察と共に大事なことは、その結果を何らかの形で記録すること。ぼくは最近まで、観察ノートとフィールドスケッチをA-5サイズのルーズリーフバインダーに残してきた。植物や昆虫、鳥の様子だけではなく、歴史や伝承文化についても記録している。数えきれないほど道端の小さな石仏も、人々の心に潜む気持ちを伝え、里山原風景の貴重なパーツとして大事にしている。 2024年、ぼくは生まれて初めて自分のフィールドワークをブログにして一般公開することを決意した。人生の最後の挑戦としては面白いプロジェクトではないかと思っている。また、多くの人たちに里山の楽しさをアピールする絶好な手段でもあると考えている。このセクション「こころの原風景をそぞろ歩く」は日本人向きに日本語で書いているが、外国人向きには英語で書かれたセクション「Rambling in Japan’s Satoyama Countryside」も別に創っている。(内容はかなり違う)。また、地域の伝承文化を簡単な読みやすい英文で紹介する「里山ストリー・ブック」の企画も進行中。英語勉強のサブリーダーとして読んでいただけることを期待している。              身近な原風景を一緒にそぞろ歩いて楽しもう      

7月12日 カラスビシャクと半夏生

ぼくは日本の伝統的な暦と季節感が大好き。旧暦では月の満ち欠けによって一か月を定めるため、月の形や見える時間、見える方向などがいつも頭の中に入っている。また、太陽の一年を24等分する「二十四節季」と、各節季をさらに三つに分けた「七十二候」の暦も、季節の移り変わりを感じ取る目安としてはとても便利。たとえば、7月の頭の候を「半夏生」(はんげしょう)というが、これは身近な野花の開花を知らせている。 半夏生の季節は天文学的に夏至から数えて11日目からスタートする。この時期には、田んぼの稲が根をしっかりと下ろし、たくましく成長している。また、小麦の収穫が終わっており、農家にとっては一年の中でも重要な時期である。七十二候の「半夏生」は、半夏(はんげ)というサトイモ科の野草が咲き始めることを意味する。 正式和名カラスビシャク(Pinellia ternate)の半夏は高さ10~20㎝程度しかなく、色も地味な緑色ため決して目立つ花ではない。しかし、草地を好む強い雑草で、田の畔から道端まで至る所に群生する。花序の形はウラシマソウやマムシグサの仲間と似ており、数多くの小さな雌花と雄花が付属体」(ふぞくたい)という棒状の器官にびっしりと付いている。ただし、この花は「仏炎苞」(ぶつえんほう)という鞘状のものに包まれており、外からは見えない。仏炎苞を開いて中を覗くと、白い雄花序と緑色の雌花序が見えてくる。 カラスビシャクは日本全国で見られ、朝鮮半島や中国本土でも普通に生える。昔から貴重な薬草とされ、地中に発生する根茎(こんけい)を乾燥させた生薬は「半夏」と呼ばれ、嘔吐、すわり、食欲不全など、胃のトラブルによく効くと言われている。かつては農家の若い嫁がこの根茎を集めて業者に売り、へそくりを稼いだという話も耳にするが、この野草は現在ではどちらかというと、邪魔な雑草として嫌われる存在になってしまった ちょっと混乱を招くのは、同じ時期に咲いているハンゲショウという植物。これは分類上ではドクダミ科の仲間に属し、サトイモ科のカラスビシャクとは無関係。  ハンゲショウは草地ではなく水辺の環境を好み、特に池の浅瀬によく群生する。数多くの小さな白い花は長い花穂に付き、花が開くと茎の上部の葉白くなる(茎の下部の葉は白くならない)。個体によって白くなる程度が異なるが、ある程度の緑色も必ず残る。白い葉は花粉を媒介する昆虫を呼び寄す役割を果たすと考えられている。 池の浅瀬に群生する半夏生。和名の由来について、花が暦の半夏生の時期に咲く意味と、葉の面積の半分程度(先端近くまで白くなる葉も見られる)だけが白くなる「半化粧」の意味、という二つの説がある。無数の小さな花が長い花穂に着く。英名のlizards tail(トカゲの尻尾)はこの花穂の様子に由来する。花は花穂の下部から順に開く。綺麗な野花は散歩中にすぐ目に入るが、地味なカラスビシャクは目を足元にやらないと絶対出会えない。そして、カラスビシャクを探している間に、身近な自然に注目する習性がいつの間にか身に付いてくる。七十二侯は、ウメ、モモ、サクラ。ヨシ、ウツボグサ、ハス、ツバキ、スイセンなど、数多くの身近な花が咲く時期を教えてくれる。また、キジ、ウグイス、スズメ、ツバメ、セキレイ、キジなどの野鳥やモンシロチョウ、カマキリ、セミなどの昆虫、身近な生き物の動きについても知らせてくれる。 たしかに、七十二侯は里山原風景の豊かな季節変化を完璧に捉えるには少し広すぎるかも知れない。でも、忘れ去られようとしている日本人特有の豊かな季節感を取り戻すきっかけは、伝統的な暦の中に見つかると思う。身近な自然に目を配ることで、眠っていた感性が呼び覚まされ、日常生活に今までになかった変化と潤いを与えることができる。                    

暦、筍、そして伝承文化

里山の原風景は一年を通して豊かな移り変わりを見せてくれる。その変化はもちろん、無限だが、おおよそに着いて行くため、日本の伝統的な暦が骨組みとしてとても楽しく使える。暦は太陽の角度によって一年を24等分して、「二十四節季」(にじゅうしせっき)を設ける。節季は「春分」、「夏至」、「秋分」、「冬至」などの天文現象や、「穀雨」、「大暑」「寒露」、「大寒」など、天気の大まかな変わり目を基準にする。また、「立春」と「立夏」、「立秋」、「立冬」によって一年を四つのシーズンに分ける。 しかし、一つの節季は大体15日間、細かい変化を捉える上はすこしおおまかすぎる。そこで、暦は各節季をさらに三つに分けて、「七十二候」(しちじゅうにこう)を設けている。一つの候は5日間、花の展開や鳥の鳴き声、昆虫の動きなど、自然界の細かい変化に対応できる。現在、24節季はテレビの天気予報にも紹介され、ぼんやりと知られているが、72候はほとんど忘れられている。 暦上には5月5日は立夏で、5月15日~19日は「竹笋生」(たけのこしょうず)の候となっている。南関東の里山原風景には、マダケとモウソウチクの2種類の大型竹が広く植えられている。マダケは弾力性に優れていて、建築や竹細工に巧みに用いている。モウソウチクは弾力性に欠けていて、建築材よりも筍として高く評価されている。マダケは普通、節目ごとに二つの輪がるが、モウソウチクは一つの輪だけ。 モウソウチクの筍は太くて、皮が硬くて剛毛に覆われる。対して、マダケの筍は細くて、皮がなめらか、美しい斑模様に恵まれて、竹皮細工に適して、また、その防腐性と吸湿性を生かして、おにぎりなどを包むにもよく使われる。マダケは漢字で「真竹」と書くが、または筍が苦いから「苦竹」とも書く。 モウソウチクは中国原産、江戸時代に日本に持ち込まれたと考えられている。漢字で「孟宗竹」と書くが、この「孟宗」は古代中国に伝わった儒教的な親孝説話に登場する男の子の名前に因んでいる。 話によれば、孟宗は父親を亡くしたが、幼い子でありながら母親の面倒を一生懸命見ていた。ある冬、母親が病気に倒れた。孟宗は母にその一番大好物の筍を食べさせたいと思って、真冬の森に探しに出かけた。当然、深い雪に覆われた森には筍の姿が全くなかった。しかし親孝行の気持ちの強い孟宗は決して諦めず、天に祈りながらひたすらに掘り続けた、すると雪が突然解けて、筍があちこちに頭を出してくれた。孟宗はその筍を母に与えると、母は病気が治り長生きした。 孟宗を始め、親孝行に特に優れた24人の話を選んで紹介する「二十四孝」(にじゅうしこう)とういう書が中国で作成され、14世紀ころから日本にも伝わったと思われている。江戸時代に入ると、儒教は隆盛期を迎え、「二十四孝」は、厳しい封建支配の思想と正当性を一般人に分かりやすい説明する絶好な材料として広く用いられるようになった。 北総の里山にも、「二十四孝」のモチーフは江戸時代に建てられた神社や仏閣の彫刻に施され、今でも残っている。ぼくは以前から、北総各地を自転車でこぎ回り、「二十四孝」のモチーフを施した神社仏閣を探し、記録している。一般的に、日本の思想は仏教と神道を中心に捉えるが、このプロジェクトを通して、儒教も、江戸時代の封建制度をスムーズに保つための 需要な社会価値観であることが分かってきた。  

神武天皇のピンチを救った魔法なトンビ

ぼくが初めて日本にやってきたのは、およそ50年も前だった。当時はアメリカ陸軍の二等兵で、神奈川県の座間基地に駐屯されていた。座間といえば、小田急線で都心に結ばれている一方、大きな河川である相模川のすぐそばで、川沿いの広い水田地帯は我々兵隊にとって散策やサイクリング散策の絶好なフィールドだった。初夏のある日、いつもの散策コースに出かけると、言葉を失ってしまった。見慣れた静かな農村風景はまるで川の中の竜宮城に変わっていた!農民たちは庭や屋根に高い竿を立てて、コイの形に模したのぼりを取り付けていた。コイは色も大きさも様々、空を元気よく泳いでいた。 ぼくは片方の日本語で知り合いの農家に尋ねると、男の子たちの健やかな成長を祈るという、「鯉のぼり」の意味を初めて教えてもらった。35年前、千葉ニュータウンに引っ越してきた当時、周辺の農村にも鯉のぼりがまばらに泳いでいた。しかし、現在は所々に垣間見える程度。地元の方のお話により、今の農家は若い人たちが村を出て、残された年配の方たちの力だけで大きな竿を建てることが出来ない。また、日本の素敵な伝統年中行事が姿を消そうとしている。やはり、寂しくなる。 ぼくの家も一人の息子に恵まれている。団地には鯉のぼりを上げてはいけないが、せがれの健やかな成長を祈るために5月人形を毎年、リビングルームの棚に飾っている。そして、ここに引っ越してきて、だいぶ後でやっと気が付いたが。この5月人形には、北総の里山原風景の大きな謎を開き明かす重要なヒントも秘められている! 家には、前毛が太くて、髪の毛と髭がワイルドな感じの鍾馗(しょうき)と、堂々とした立派な姿の神武天皇、2本の人形を飾っている。鍾馗は中国の唐時代に実際に活躍した人物をモデルにして、病気を追い払ってくれると言われている。神武天皇は日本の初代の天皇、奈良盆地で大和政権を開くために勇ましく戦っている武者の姿で描かれている。そして、北総の里山原風景と深い関連を持つのは、この神武天皇の方だ。 五月人形に描かれる神武天皇の姿は、「神武東征」という神話の有名なエピソードに因んでいる。『日本書紀』により、九州から奈良盆地に攻めてきた神武天皇は、地元の豪族と戦を望んでいた。しかしいくら頑張っても、苦しい戦いに強いられ、なかなか勝利できなかった。やはり、地元の豪族は西の国から勝手に攻めてきたインベーダーに自分の土地をその簡単に譲らない。必死に抵抗していた。 その泥沼の戦に、ある日、稲妻のように光り輝く黄金のトビが突然に飛んできて、神武天皇の弓の先端に止まった(家の人形は槍の先に)。この不思議な鳥に驚いた敵軍は眩まされ、戦う気力を失ってしまった。神武天皇はパニック状に陥った敵軍を皆殺しにして、戦を終わらせた。そして、神武天皇は、勝利を齎せたトビを奨励して、その戦場地域を「トビ」と名付けた。『日本書記』の記録には、その地名は後で「トミ」に訛ったと記述している。また、この大活躍したトンビこそ、北総の里山原風景と深く関わっている。 北総地域の鎮守社には、熊野神社、浅間神社、八幡神社、諏訪神社、春日神社、稲荷神社、大宮神社、八坂神社などなど、全国的に有名なブランド神社系列の分社が多い。しかし、北総ならではの全国的に珍しい、深い謎に包まれたユニークな神社も鎮座している。その一つは「鳥見神社」(とりみじんじゃまたはとみじんじゃ)という。 北総には、18社の鳥見神社が鎮座している。その中には小社程度のものも見られるが、地区(旧村単位)の鎮守社クラスの立派な神社も多く見られる。これらの神社は、巨木を揃った鎮守の森に囲まれていて、神秘的な空気を漂わせている。美しい神社彫刻を施しているものも少なくない。また、獅子舞や神楽などの貴重な無形文化財を伝承する社も楽しめる。 鳥見神社は北総以外にほとんど見られない。そして、北総の中でも、印旛沼と手賀沼の間という、限られた地域にしか鎮座していない。この分布は謎のベールに包まれ、われわれ地域歴史のオタクの好奇心をあおり立てている。色々な説が唱えられているが、ぼくの個人的な考えでは、先ず『日本書紀』の記述に戻る。神話によれば、上記の大きな戦の後、「ニギハヤニ命」(命饒速日命)という神が神武天皇に忠義を示し、国を天皇に譲り、熱烈な歓迎を受けた。そして、その神は物部氏の祖先であるということも記されている。 北総の鳥見神社は、主祭神としてニギハヤニ命を祭っている。その妻であるミカシキヤ姫(『古事記』ではトミヤ姫とも呼ばれる)と、子であるウマシマチ命の2柱も一緒に祭っている社も多い。この3柱の神々は物部氏の氏神とされ、皆が学校の日本史授業で習うように、物部氏は6世紀後半、仏教を受け入れるかどうかを巡って蘇我氏と争った。廃仏派の物部氏は敗れ、その子孫がちりちりになった。この時、物部氏の一族が印旛沼の西に住みついて、この地域を開拓し平定した可能性が高いと考えられる。当然、奈良盆地から新天地を求めてここにやってきた物部たちは、自分の氏神も奈良のとみ町からここに勧請して、鳥見神社を立てて祭っただろう。   歴史には、国全体や世界を動かすビッグ・ヒストリーと、各地域に潜むスモール・ヒストリーの2タイプがあると考えている。学校で学ぶビッグ・ヒストリーも重要だが、地域の里山原風景に深く根ざしたスモール・ヒストリーは直接に触れ合え、わくわくさせる。ぼくは以前から鳥見神社のヒストリー・ミステリーに魅了され、自転車で各地の鳥見神社を楽しくこぎ巡って、謎を解くヒントを探っている。歴史博物館も訪れて、時折、図書館の郷土資料室に座り込んで、考古学の発掘調査報告書などの本格的な資料にも挑戦している。スモール・ヒストリーは身近な原風景散策ならではのビッグな楽しみ。